歩いてきた、ところ。

JDになります

はる、

通学の時間は基本的にひとりだ。だから考える時間がやたらとある。

家でパソコンに向かいながら、もしくはゴロゴロしながらひとりで過ごすのとはなんだか違う時間だ。「歩く」という行為に付随するものなのかもしれない。

歩いていると色々なことが浮かんでくる。それがトゥートの内容だったりブログのネタだったりになっている。

春休みに入ってからというもの、外に出ることがほとんどなくなった。ましてやひとりでなにかをすることなど一切なかった。だから何も思いつくことがなかった。ひきこもりは向いていないのかもしれない、なんて思った。

この春休み、桜をやたらと見に行った。

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予定されていた花見。東京に行った。明治神宮外苑は国立競技場の再建に伴い殺伐としていたが春はそこに咲いていた。

その2日後に唐突に親友に誘われまた花見へ。f:id:Rafra:20180403040532j:plain

見慣れた街がいつもとは違う景色に見えた。トンネルを抜けた先にある桜のトンネル。人通りも殆どなく、ピンク色の景色だけが広がっていた。

さらにまた母に連れられ花見へ行った。妹にせがまれカメラを渡してみたらとてもいい写真を撮って来たので将来が楽しみだなあと思った。

春を存分に堪能し、もうすぐ休みが終わるのだと実感する。

学校に行きたくない。

とても嫌ではあるがそう思えるのもあと一年なのだと思うと感慨深いものがある。12年間ある学生生活をもうすぐ終えようとしているのだな、と。

もっとなにか出来たのではないかと思うがもう手遅れかもしれない。これから先もまだまだ先は長い。アクションはいつでも起こせる。取り返すこともいつでもできる。実のところやる気と力量なのだろう。

今日も生きよう。なにかいいことがあるかもしれない。

なんとなくの殺人

ある殺人鬼が言った。

「なんとなく殺しました。理由はありません。」

 

普段生活していると理由なく行動していることが多いような気がする。休みの日になぜ6時に起床したのか、それは起きてしまったからだったりなんとなくだったりする。二度寝という選択肢がありながらそれを取らずぼーっと一日を過ごすことだってあると思う。もちろんそれによって結果とてもよい休日になったとしても始まりは紛れもなくなんとなくなのだ。ご飯を食べるとき、なぜ先におかずから手をつけたのか。それもなんとなくであるときがある。なぜそれを行わなかったのか、なぜそうしたか、すべてに理由があるという人もいるがその理由は後付けであるような気がする。原因は後付けであり動機は先にあるものでそれがない場合もありうると思うのだ。

 

あいにくの雪であったが今日は春分の日だった。もうすぐ春になって虫が増える。

 

幼いころ、ありを大量につぶしてみたり巣を埋めてみたりした経験はないだろうか。わたしはありを殺すのが申し訳なくてやらなかったが赤い虫ならよく殺した記憶がある。そんな風に虫を殺したとき、わざわざ何か考えながら殺しただろか。もちろん嫌だったとか好奇心だったとかそういう理由があることを否定したいわけじゃない。ただ、命あるものをいともたやすく殺していたことを思い出してほしいのだ。

 

人間は法の下で平等である。世界の中でどの動物よりも人間が一番だと思っている。そんなひとが多いから、虫を殺しても罪には問われないし動物を殺したって2年以下の懲役にしかならない。もちろん殺人を正当化したいわけじゃない。けれど蚊を殺すように人間を殺してもおかしくはないんじゃないか。手間や知識やサイズや感触、まるで虫とは違うけれどあってもおかしくないんじゃないか。なんとなく、殺しました。きっとそんなこともあるのではないだろうか。

 

ここまで「感覚的な殺人」を語ってきたがわたしがそのようなことをするつもりはないし、それを肯定したいとも思わない。ただひとつの考えとしてあり得ると思っただけだ。わたしは殺人が怖いと思うしなければいいと思う。

悪口

近所に三姉妹が住んでいる。姉妹ともによく表彰されている。習い事も多くしていてとても多彩な姉妹なのだなと思っている。

が、ここでひとつ言わせてほしい。めっちゃ「ブス」だ。

わたしも人のこと言えるほど可愛いわけではないがこれはこれは可哀想になるくらいブスだ。本当にブスだ。そんな姉妹は母親似だ。つまり母親がぶすだ。

どうしてこうもdisるかというと小学校の時からのうらみがあるからだった。

――母親に。()

 

小学校というのは学校生活の中で最も「集団行動」を求める場であると思っている。そんなわけで「集団登校」なるものがあった。集団登校とは地域ごとで分けられたいくつかの班で集合し並んで登校する。昨今の度重なる事件による防犯対策なのだと思う。毎朝決められた集合場所に決められた時間に集合する。班長は班員が揃ったのを確認して出発する。当時6年生だった私は班長を務めていた。

ある朝、集合時間を過ぎても三姉妹が来ないのだ。集団で遅刻するわけにもいかないので時間が過ぎると勝手に出発することになっていた為わたしは三姉妹を待つことなく出発した。

翌日、三姉妹の母親が私のもとへやってきた。

「なんで昨日呼びに来てくれなかったのよ!」

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小学生のわたしでもさすがにおかしいと感じた。いやいやいや、なんで呼びに行かなあかんねん、と。そこで私は反論した。

「決まりは守ってくださいよ、遅れそうなら自分(母親)が連絡しに来てください。遅れる方が悪いんじゃないですか。」

周りにいた保護者から褒められた。正直こんなこと小学生じゃなきゃ言えてなかったように思う。

 

そんなわけで怖いもの知らずなわたしは小学生の時から形成されていたことがよくわかる。今でもこのおばさんは嫌いだ。ちょっと太っていて痩せようとするものの方法が「耳つぼダイエット」で、「いや動けよ」とか小学生ながらに思っていた。

 

わたしの考えがおかしいのかあのおばさんがおかしいのか、どちらを正義とするかはわからないがわたしは間違ってないと思うのでこれでいいと思っている。変な大人が世にいるのか私が変なのか。わたしはわたしの正義で生きていたいし間違ったことを飲み込んで生活したいとも思わない。だからこそわたしは人の上に立ちたいと思うのだけれどそんな動機じゃだめだろうか。

 

ちなみにこのおばさんの話をすると私とお母さんは最高に盛り上がる。コミュニケーションをとるのに一番早い方法が共通の嫌いな知人の悪口だ。滑稽だな。

におい

匂いは記憶を結びつける。その記憶はほかの記憶とは少し違う記憶である。とても感覚的な記憶で当時の情景よりも当時の心象のような、そんな記憶を呼び起こす。

 

春の訪れが近づいてきた。段々春のにおいが鮮明になってきた。なぜか去年のことは思い出せない。思い出されるのは一昨年のこと、私が高校生になった春のことである。

けれどもなぜかこうして思い出される一昨年の記憶がまるで幼少期の記憶のように懐かしく思い出されるのだ。

 

匂いには不思議な力がある、不思議な記憶がある。

 

今年は受験生。来年の春には笑って卒業できているといいのだけれど。まずはクラス替え。それからテスト。周りを蹴落として勝ち残っていくしかない。

 

自分の利益のためにぎりぎりのラインまではやる。一線を越えてはいけない。そこを見極められるように、感情を表に出さないように、うまく1年乗り過ごさなくてはいけない。

 

春は懐かしくて、さみしくて、温かくて、苦い。

 

今年もきれいな桜が咲くだろうか。

今年は幸せな春を迎えられるだろうか。

今年はどんな出会いがあるだろうか。

今年は幸せになれるだろうか。

 

 

ほわいとでー

割と幸せに生きてきた方だと思う。基本的に明るいし何不自由なく暮らしてきたように思う。どこで何を思ったのか、いつからこんな風になってしまっていたのか、定かではない。

普通よりもちょっと声が高くて普通よりもちょっとかまってほしがりで普通よりもちょっと男運が悪いだけだ。どこでなにを間違えたのだろう。

生きていればきっとそんなこともある。そう言い聞かせてきたけれど、一向に回復の兆しはない。ましてや原因がわからないから改善のしようがない。私はほんとうにこれでよかったのだろうか。

嫌いなものが増えて好きなものが減った。すべての事象が面倒になった。それでも普通であることにこだわった。どうにか溶け込みたかった。だから学校はちゃんと行った。母と約束したから成績もそこそこに取った。それ以外はすべて面倒になった。好きなもののためにしか動きたくない、嫌なことはしたくない。

そんな世界に不必要な私を私は消そうとしているのかもしれない。うまく溶け込めない私を、うまく取り繕えないわたしを、なにもできない私を、排除したいのかもしれない。

 

今日はホワイトデーだった。なんで白くもない時期に”ホワイト”なんてつけてしまったのだろうか。日本の商戦で聖バレンタインの処刑日は恋人の日と化し、一月後には新たにイベントが作られた。どうかこの思いもすべて真っ白に消え去ってくれたらいいのに、そんなことはあるはずなくて。私は今日もどうにか生きている。どうにか生きているのか死にきれないのか、ただの意気地なし。人の顔色を窺わずに学生の間は生きていきたい、なんてわがままですか。